1963年5月1日、埼玉県狭山市で女子高校生が行方不明になり、脅迫状がとどけられるという事件がおきました。警察は身代金を取りにあらわれた犯人を40人もの警官が張り込みながら取り逃がしてしまいました。女子高校生は遺体となって発見され、警察の大失敗に世論の非難が集中しました。
捜査にいきづまった警察は、付近の被差別部落に見込み捜査を集中し、なんら証拠もないまま石川一雄さん(当時24歳)を別件逮捕し、1カ月にわたり警察の留置場(代用監獄)で取り調べ、ウソの自白をさせて、犯人にでっちあげたのです。地域の住民の「あんなことをするのは部落民にちがいない」という差別意識やマスコミの差別報道のなかでエン罪が生み出されてしまったのです。
一審は死刑判決、二審は無期懲役判決で、1977年に無期懲役判決が確定し、石川さんはただちに再審請求を申し立てました。第一次再審請求はまったく事実調べもなく棄却され、1986年8月に申し立てた第二次再審請求も、1999年7月9日に東京高裁・高木裁判長が事実調べも行なわないままに、抜き打ち的に棄却しました。
2006年5月23日に東京高裁第4刑事部に第3次再審請求を申し立て、現在に至っています。
第57回三者協議(速報)
「10.31」の二日後、11月2日に行われました。大野裁判長の退官を前にしてした「最後の協議」でしたが、進展はなく、書面のやりとりが続くことになり、次の裁判長に先送りされました。一体、いつまでこんなありさまなのか?疲れが押し寄せます。
「ストーン・リバー」第37号
“その時”を待っていましたが、どうにも待ちきれなくなり、発行することにしました。「最終段階」との掛け声に応えて、各地で奮闘が続いていますが、なかなか、道は見えません。何だjか「狭山」だけが置いてけぼりをくらってるようで、歯がゆさと同時に、やるせない思いが募ります。石川一雄さん・早智子さんの胸の内を思うと・・・。
第55回三者協議が6月8日に行われました。「報告」です。
「解放新聞」号外(2022年9月21日)狭山特集です。
第50回三者協議(報告)